南西部の光/ロラン・バルト

ところが、私はこうした機微―あるいこうした「歴史」の逆説―を、表現こそできなくても、感じ取っていたのだ。私は南西部をすでに≪読んでいた≫。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテキストを追っていたのである。というのは、一つの国を≪読む≫ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識するのが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。