わたくしは、すでに述べたように、その三人の中では、コッポラに強い親しみを覚えています。スコセッシと異なり、彼は自分自身より映画の方を遥かに信頼しており、それ故に、映画によって救われることがあるからです。映画を信頼するとは、同時に、映画には何ができないかに自覚的だということにほかなりません。スコセッシは、間違いなく映画より自分の方を信頼している。だから、映画で何でもできると確信している彼の撮った作品には、映画によって救われることがまずありません。したがって、ごく普通の場面が撮れない。あらゆるショット――構図、被写体との距離、アングル、その動き――が彼自身のやや粗雑な感性によって構成されているので、自分でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットが、彼の映画ではまったく不在なのです。

 

わたくしがテレンス・マリックを信用できないのは、むしろそうした想像的な画面の挿入にこそ自分の作品の真価があるかのように錯覚している点によります。

 

第3回 映画には適切な長さがある | 映画の「現在」という名の最先端 ――蓮實重彦ロングインタビュー | 蓮實重彦 | 対談・インタビュー | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)

 

私は一体何を見てきたのだろうか。個人的にジョン・フォードのファンであることを自任してきたが、この講演の前ではフォード映画を1本も見ていなかったことと同様だった。物語の起伏が最小化され、日常の細部が躍動する小津映画の批評で試みられた方法論が、西部の男や残酷な生存ゲーム、モニュメントバレーでの叙事詩的な映画の批評でも用いられるとは夢にも思わなかった。日本の小説家である松浦理英子の表現を借りれば、「天から地に向かって降るものだとばかり思っていた雨が突然右から左に向かって降ったかのような」驚きだった(松浦理英子「蓮實重彦を初めて読んで驚く人のためのガイダンス」、『夏目漱石論』、蓮實重彦著、講談社文芸文庫、2012に収録) 。このような人の前ではフォードの話は口にしないほうがいいだろう。しかし、しばらくすると心の奥底から同時に意地悪な疑問も浮かび上がった。“それで何? 人物が何かをよく投げて、その後に重要な出来事が起きるということがフォード映画の偉大さと何の関係があるというのか?”

 

 

これらの記号から蓮實はロラン・バルトから受け継いだと思われる自己流の「テマティスム(主題論)」(映画作家や小説家の意図とは無関係に、ある「作品」に散見されるテーマ群――色彩や形象や数など――を拾い出しては繋ぎ合わせ、その「作品」が語っていることになっているのとは別の、もうひとつの「物語」を紡ぎ上げるというもの) (佐々木敦、『ニッポンの思想』、講談社現代新書、2009)を再構築する。『監督 小津安二郎』は、蓮實のテマティスムが最も美しく展開された代表作だ。要するに彼の批評というのは、対象作品に関連した他の作品の鑑賞以外にいかなる予備知識など要求しない。なので、もしかしたら彼の批評は最も易しいと言うこともできる。