言葉の外へ <保坂和志×樫村晴香対談>

例えば、ダ・ウィンチは、作品を誰かに見せるのに興味を持っていなかったけど、その作品は極めて倒錯的な仕方であれ、世界の表象、というより世界の研究報告として想像的な的な他者としての自己に向けられ、贈与されている

=作品は常に、誰かに向けて作られる

言い換えると、何かを見ることと、それを描き世界に送り出すことは、作家における二つの別の瞬間で、それが作品の時間を構成する

 

しかし、デュシャンは、作品を作る時、想像的な誰に向けても、それを送り出していない

→回転する自転車の車輪や粉砕機は伝達される表象ではなく、それ自体が、回転する一回毎に読み取られる他者=世界であり、つまり、回転は表象でなく、自己の視線の動きである

=そこでは、回転を追う自己の視線が他者として読み取られ、計測され、評価される

 

チョコレート粉砕機が回転するたびに自己の視線が造形され、その視線が表象となり、他者として回帰し続ける、そして、それがすべてである

だから、デュシャンでは何かを見るということと、それを想像的な誰かに向けて表象するという二つの時間はない

デュシャンの作品を見る人は、彼と全く同じように、彼と同じ質の視線で、その作品を見ることを求められる

ダ・ウィンチのマリアを見る人はダ・ウィンチと同じように見ているように錯覚するが、同じ場所ではなく、彼の絵を受け取り彼に騙される場所にいる

セザンヌの場合も彼が表象として送り出した絵を見ているだけ

デュシャン以外の作家の場合、例えば、セザンヌ自身が想像的な他者の時間へ、彼の作品を送り出し、彼の視線を誰かと共有し、誰かに共有させ、抽象的な誰かと一緒に自分が世界を見ていると感じているため錯覚が可能になる