〈アンチ・オイディプス〉入門講義 仲正昌樹

☆「欲望」というのは人間とか他の生物個体の中で内発的に生じてきて、その過去体の中で完結しているものではなく、他の機械とのインプットアウトプットの連鎖の中で生産され続けている。

 

☆機械の相互作用によって成り立っていることを考えると目的ははっきりせず、生産の始まりと終着点を厳密に確定することはできない。(芸術における完成・傑作の概念)

 

☆欲望機械から他の機会に流されるだけ、その後、「私は○○の欲望を抱いていたはずだ」、と事後的にその働き(主体性)が想定されるにすぎない。

 

☆主体や全体という幻想。欲望機械や部分対象こそリアル。

 

☆DGは欲望機械の多方向的な連鎖を重視する

 

☆『失われた時を求めて』の語り手←物語とともに自己生成し続ける。自分自身をゼロにして諸機械の微細な運動を感知していく=器官なき身体

 

☆モロイは一つの主体から別の主体への移動。男性としての記述と女性としての記述が入り乱れたテキスト。

 

☆器官なき身体上の主体の移動=旅

 

☆最初に自律して独自の欲望を持った個人がいるわけではない。

 

☆資本主義=脱領土化・脱コード化した後に、資本主義を成り立たせるため国家などを通じて再領土化・再コード化する。

 

☆エディプスは「世界史の成果」「普遍史の帰結」

 

☆愛を交わすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもなく何十万にもなることなのだ。

 

☆プルーストの話者のように、いろんな大地、その多くは古くからある大地を逍遥しているうちに、どこかに新しい大地が見つかればいい、その途中でファシズム的な罠に遭遇することもあろうが、それを恐れていたら閉塞した現状に留まるだけなので逃走線を船をたどっていくしかない。

 

☆再領土化によって各人にアイデンティティを保持させて労働へと誘いパラノイア的に富を蓄積するよう仕向ける。

 

☆脱領土化や脱コード化においてどんなに遠くに進んでも十分ということはない。

 

◎聖家族=核家族=エディプスに対する批判。エディプスと資本主義の共犯関係。(資本主義と分裂症というサブタイトル)エディプスの三角形に押し込めることへの批判。エディプスではなく欲望機械なので構造をもたない。

 

◎セリーヌやケルアック