磯崎憲一郎メモ①

磯崎憲一郎は横尾忠則との対談で絵を描くように小説を書くと言っている

絵を描くように書かれた小説は、あらすじに要約することができないし、人間は世界の要素の一つに過ぎない

そこではあらすじという極めて人間中心的なものとは距離を置いた小説が生まれる

小説はあらすじを持たなくてはならないと考えるときの“小説”は随筆やエッセイ、ノンフィクションの延長線上にある

絵を描くように世界を記述することで小説は芸術として(エッセイやノンフィクションなどの本とは本質的に異なるものとして)小説としか呼びようのないものとして姿を現す

 

言葉の外へ <保坂和志×樫村晴香対談>

例えば、ダ・ウィンチは、作品を誰かに見せるのに興味を持っていなかったけど、その作品は極めて倒錯的な仕方であれ、世界の表象、というより世界の研究報告として想像的な的な他者としての自己に向けられ、贈与されている

=作品は常に、誰かに向けて作られる

言い換えると、何かを見ることと、それを描き世界に送り出すことは、作家における二つの別の瞬間で、それが作品の時間を構成する

 

しかし、デュシャンは、作品を作る時、想像的な誰に向けても、それを送り出していない

→回転する自転車の車輪や粉砕機は伝達される表象ではなく、それ自体が、回転する一回毎に読み取られる他者=世界であり、つまり、回転は表象でなく、自己の視線の動きである

=そこでは、回転を追う自己の視線が他者として読み取られ、計測され、評価される

 

チョコレート粉砕機が回転するたびに自己の視線が造形され、その視線が表象となり、他者として回帰し続ける、そして、それがすべてである

だから、デュシャンでは何かを見るということと、それを想像的な誰かに向けて表象するという二つの時間はない

デュシャンの作品を見る人は、彼と全く同じように、彼と同じ質の視線で、その作品を見ることを求められる

ダ・ウィンチのマリアを見る人はダ・ウィンチと同じように見ているように錯覚するが、同じ場所ではなく、彼の絵を受け取り彼に騙される場所にいる

セザンヌの場合も彼が表象として送り出した絵を見ているだけ

デュシャン以外の作家の場合、例えば、セザンヌ自身が想像的な他者の時間へ、彼の作品を送り出し、彼の視線を誰かと共有し、誰かに共有させ、抽象的な誰かと一緒に自分が世界を見ていると感じているため錯覚が可能になる 

 

 

 

〈アンチ・オイディプス〉入門講義 仲正昌樹

☆「欲望」というのは人間とか他の生物個体の中で内発的に生じてきて、その過去体の中で完結しているものではなく、他の機械とのインプットアウトプットの連鎖の中で生産され続けている。

 

☆機械の相互作用によって成り立っていることを考えると目的ははっきりせず、生産の始まりと終着点を厳密に確定することはできない。(芸術における完成・傑作の概念)

 

☆欲望機械から他の機会に流されるだけ、その後、「私は○○の欲望を抱いていたはずだ」、と事後的にその働き(主体性)が想定されるにすぎない。

 

☆主体や全体という幻想。欲望機械や部分対象こそリアル。

 

☆DGは欲望機械の多方向的な連鎖を重視する

 

☆『失われた時を求めて』の語り手←物語とともに自己生成し続ける。自分自身をゼロにして諸機械の微細な運動を感知していく=器官なき身体

 

☆モロイは一つの主体から別の主体への移動。男性としての記述と女性としての記述が入り乱れたテキスト。

 

☆器官なき身体上の主体の移動=旅

 

☆最初に自律して独自の欲望を持った個人がいるわけではない。

 

☆資本主義=脱領土化・脱コード化した後に、資本主義を成り立たせるため国家などを通じて再領土化・再コード化する。

 

☆エディプスは「世界史の成果」「普遍史の帰結」

 

☆愛を交わすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもなく何十万にもなることなのだ。

 

☆プルーストの話者のように、いろんな大地、その多くは古くからある大地を逍遥しているうちに、どこかに新しい大地が見つかればいい、その途中でファシズム的な罠に遭遇することもあろうが、それを恐れていたら閉塞した現状に留まるだけなので逃走線を船をたどっていくしかない。

 

☆再領土化によって各人にアイデンティティを保持させて労働へと誘いパラノイア的に富を蓄積するよう仕向ける。

 

☆脱領土化や脱コード化においてどんなに遠くに進んでも十分ということはない。

 

◎聖家族=核家族=エディプスに対する批判。エディプスと資本主義の共犯関係。(資本主義と分裂症というサブタイトル)エディプスの三角形に押し込めることへの批判。エディプスではなく欲望機械なので構造をもたない。

 

◎セリーヌやケルアック

わたくしは、すでに述べたように、その三人の中では、コッポラに強い親しみを覚えています。スコセッシと異なり、彼は自分自身より映画の方を遥かに信頼しており、それ故に、映画によって救われることがあるからです。映画を信頼するとは、同時に、映画には何ができないかに自覚的だということにほかなりません。スコセッシは、間違いなく映画より自分の方を信頼している。だから、映画で何でもできると確信している彼の撮った作品には、映画によって救われることがまずありません。したがって、ごく普通の場面が撮れない。あらゆるショット――構図、被写体との距離、アングル、その動き――が彼自身のやや粗雑な感性によって構成されているので、自分でも意識することなく撮れてしまったというみごとなショットが、彼の映画ではまったく不在なのです。

 

わたくしがテレンス・マリックを信用できないのは、むしろそうした想像的な画面の挿入にこそ自分の作品の真価があるかのように錯覚している点によります。

 

第3回 映画には適切な長さがある | 映画の「現在」という名の最先端 ――蓮實重彦ロングインタビュー | 蓮實重彦 | 対談・インタビュー | 考える人 | 新潮社 (kangaeruhito.jp)

 

私は一体何を見てきたのだろうか。個人的にジョン・フォードのファンであることを自任してきたが、この講演の前ではフォード映画を1本も見ていなかったことと同様だった。物語の起伏が最小化され、日常の細部が躍動する小津映画の批評で試みられた方法論が、西部の男や残酷な生存ゲーム、モニュメントバレーでの叙事詩的な映画の批評でも用いられるとは夢にも思わなかった。日本の小説家である松浦理英子の表現を借りれば、「天から地に向かって降るものだとばかり思っていた雨が突然右から左に向かって降ったかのような」驚きだった(松浦理英子「蓮實重彦を初めて読んで驚く人のためのガイダンス」、『夏目漱石論』、蓮實重彦著、講談社文芸文庫、2012に収録) 。このような人の前ではフォードの話は口にしないほうがいいだろう。しかし、しばらくすると心の奥底から同時に意地悪な疑問も浮かび上がった。“それで何? 人物が何かをよく投げて、その後に重要な出来事が起きるということがフォード映画の偉大さと何の関係があるというのか?”

 

 

これらの記号から蓮實はロラン・バルトから受け継いだと思われる自己流の「テマティスム(主題論)」(映画作家や小説家の意図とは無関係に、ある「作品」に散見されるテーマ群――色彩や形象や数など――を拾い出しては繋ぎ合わせ、その「作品」が語っていることになっているのとは別の、もうひとつの「物語」を紡ぎ上げるというもの) (佐々木敦、『ニッポンの思想』、講談社現代新書、2009)を再構築する。『監督 小津安二郎』は、蓮實のテマティスムが最も美しく展開された代表作だ。要するに彼の批評というのは、対象作品に関連した他の作品の鑑賞以外にいかなる予備知識など要求しない。なので、もしかしたら彼の批評は最も易しいと言うこともできる。

保坂和志twitterより

時間は直線的に進むとは限らない。ボルヘスの想像力の源泉のひとつは、「時間は円環である」ということだった。(円環をなす時間概念はかつて人類に広く行き渡っていた。)

時間が円環なら出来事は繰り返す。

起こることはすべて起こったことである。

あるいは、進む先には過去が待ち受けている。

小説を書くときに必要なのは、世界観、あるいは作者固有の「世界の感触」「世界への強いこだわり」「世界に向き合う態度」の提示で、読者の共感や興味はそこに由来する。

小説が書けないという人は、題材となる出来事を追うばかりで、自分にリアルである「世界の感触」や自分自身の「世界へのこだわり」が何かを考えていないのではないか。

南西部の光/ロラン・バルト

ところが、私はこうした機微―あるいこうした「歴史」の逆説―を、表現こそできなくても、感じ取っていたのだ。私は南西部をすでに≪読んでいた≫。ある風景の光やスペインからの風が吹く物憂い一日の気怠さから、まるまる一つの社会的、地方的言説の型へと発展していくそのテキストを追っていたのである。というのは、一つの国を≪読む≫ということはそもそも、それを身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだからである。私は、作家に与えられた領域は、知識や分析の前庭だと信じている。有能であるよりは意識的で、有能さの隙自体を意識するのが作家である、と。それゆえ、幼児期は、私たちが一つの国をもっともよく知り得る大道なのである。つまるところ、国とは、幼児期の国なのだ。